RECOMMEND
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
RECENT COMMENTS
CATEGORIES
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS

08
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--

ある伝説的隠居研究者の回想ブログ

発想の原点 最終章 未来を切り開く推進力は執念
 そこで、我流のぺ−パークロマトグフフで調ぺることにした。蒸留収率のがた落ちMAPをぺ−パークロマト法で色々な混合溶媒を用いて調ぺたところ、二つに分かれたのである。早速、分離精製してみると、蒸留残からとれた化合物は、MAPと元素分析値がほとんど同じで融点が近く、しかも融点降下も殆どしないが分子量が二倍あるので、明らかに不純物だった。

 すなわち、今までの公定分析法は不純物もはかり込むことが判った。あとは一瀉千里である。連続反応の生産量が日を追って低下する理由は、廃液からMAPと信じて回収して仕込んでいた回収MAPが、実は、不純物でわざわざ不純物を仕込んだことが原因と分かった。蒸留収率ががた落ちするロットは、反応釜洗いをする土曜日の製品であることも判明した。

 PASの反応がうまく行かない理由も、製品が時々変色する理由も判った。原困は全て工場の外にあった。

 工場長は余程嬉しかったらしく、技術表彰を申請し、同時に、関係先には改良製造法の実施を要求した。かくして、塩酸百本を二時間で分析した新入社員は、画期的分析法を開発して赤字工場再建に貢献した功績で表彰された。

 この分析法は意外なところで波及効果が出た。係長がインチキ原料を買わされたといって、主原料の仕入先に値下げ交捗をしに行って、過去の赤字の一部を相手に転嫁して意気揚揚と帰って来たのである。前代未聞の業績改善であった。あれやこれやと、寝耳に水の騒動を起こして、私も知らぬ間に有名人になっていたのである。

 私はこの仕事を通じて、また、大きな教訓を得た。疑問は何処までも妥協を許してはならないという追求の厳しさであった。未来を切り開く推進力は執念であることを知ったのである。
 このことがあってから十年後に研究管理者になったのであるが、工場現場で学んだこの二つの教訓が、私の発想の原点になったと考える。

| 発想の原点 | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
発想の原点 7
 種をあかすと、実は、鼻で試験したのである。

 瓶の蓋をはずして匂いを嗅いで塩酸であることを確かめてから、比重計をいれて目盛りを記録して終わりである。百本分を記録したら、机に座って比重から一を引いて二十倍すると、塩酸の濃度が誤差○・五パーセント以内の精度で出て来るのである。化学恒数表を見れば解るのであるが、分析工仲間の謎になって拡がったらしい。

 その時の工場長の新入社員の育成方針は、一年間試験係で遊ばせて工場に慣れさせるという呑気なものだった。
 大学の薬品分析学教室の出身者に、塩酸百本の分析は可哀想という声もあったのか、副工場長から工場の反応液の分析依頼が来るようになった。易しそうで難しいものばかりで、レパトリー不足を感じた。そこで、当時、評判が出てきたイオン交換樹脂やぺーパークロマトグラフに手をだしていた。PASの現場担当になったのはその頃だった。

 PASの製造工程に大きな謎があった。連続反応で製造するのであるが、分析値を照合して、厳密に仕込みを制御しても、必ず生産量が日を追って低下するのである。
 副工場長は主原料のMAPの品質に疑問ありとして、化学分析値と蒸留収率を同時に求めることを命じた。助手をもらって数十日にわたって追跡したが、時々蒸留取率が落ちるものが出たが、分析値と相関牲がなく意味不明であった。
 蒸留残査はMAPのようであるが、何故、残るのか判らなかった。
| 発想の原点 | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
発想の原点 6
 標準化委員会事務局員時代は後年のTQCの種蒔きをしていた訳であるが、この時に、日科技連のベーシックコースで実験計画法を学んだことは、製剤研究の管理職になった時に大いに役に立った。二年後にまた転勤命令が来た。
 転勤先は、大阪技術部第二技術課であった。工場と研究部や本社との中継点のような部門で農薬担当課員の助手をせよということであった。

 この時、自分について奇妙な評価のあることを知った。それは、「人の出来ることは出来ないくせに、人の出来ないことの出来る奴」という、有り難いような、有り難くないような評価であった。誰が言い触らしたか知らないが、初対面の部長に言われて知った。

 それには心当たりがあった。新入社員として入社した時、入荷する原料を分析試験する試験係に配属になったが、不景気のためにすることがない日があった。そこで、分析工の仕事を分けて貰って、その日ぐらしをしていたのであるが、不器用で分析工の二倍以上の時間がかかる。報告を待っている連中には評判が悪かった。

 それで、一度、秘策を用いた。塩酸の受け入れ検査であったが、至急という注文だったので、百本の二五リットル瓶の塩酸の受け入れ検査を午前中に完了して、しかも、不合格品二本を指摘したのである。

 これには分析工も腰を抜かした。
| 発想の原点 | 06:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
発想の原点 5
 PASの服用量は一日当たり一○グラムと多い。それに加えて、結核患者は神経質で一寸でも色が悪いと患者が服用しないので返品になる。これが原因でPASのメーカーは潰れるのである。
 私の工場も、毎年、二○パーセント程の返品があった。捨てる訳にも行かないので、化学的に分解して中間物に戻してから、また、反応して製品化していた。この費用が大きい。分解と反応を往復するから、二○パーセントの返品は製造原価に対して三○パーセントくらい跳ね返ったと推定される。これがゼロになったので、さしもの赤字もとんとんになり、他社は潮が引くように撤退し始めた。生産量が四倍にふえても設備能力に心配はいらなかった。
 係長とこれから楽になると、喜んでいたところへ転動命令が来たのである。

 この仕事の為に勉強したことはアメリカの科学的管理法であった。種明かしをすれぱ化学会社の現場にフォード自動車工場のシステムを持ち込んだだけである。

 後で聞いたのであるが、PASの赤字改善には大勢の先輩が取り組んで成功せずにおわり、技術者の墓場と見なされていたそうである。私が成功したのは、先輩の後追いを初めから諦めて参考にもせずに対象のなかに飛び込んで、疑問に感じたことを専門にこだわらずに追求したことにあった。あとは必然に導かれたということである。

 平凡すぎるくらい平凡な着想で問題点を見つけて普通の方法で解決したに過ぎない。創造とはこんなものかもしれないと考えたのである。
| 発想の原点 | 11:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
発想の原点 4
 残りの時間は、原料を運んだり、モンキーやスパナーを探したり、隣の工程の時間待ちだったり、安全設備の不備による時間の浪費のような操作法だったり、機械配置の改善で不要になる動作だったり、真空ポンプのような設備機械の不調だったり、まさに、原始時代さながらの作業の上に工程の標準時間が設定されていることが判明したのである。

 これだけわかれぱ充分である。今まで判らなかったのは、腕利きの職長、組長に作業管理が任されていて、誰も踏み込めなかったからであろう。早速、担当係長に報告した。
 事務処理的な仕事しか手を出さなかった係長は、元陸軍航空大尉の猛者で作戦計画のペテランである。後は、俺に任せろという感じで、工場の一部を手直ししただけで、あっという間に生産性を四倍近くに引き上げたのである。

 夜勤と昼勤の工程を組み替えて分業化して、原料搬入は倉庫課に時刻まで指定したスケジュール表を渡して任せて、一日一回の仕込みを二回にしてしまい、作業員全員に充分な工具と工具置場を支給して、工具を探し回る時間をなくした。
 航空整備兵の要領で設備機械は予防保全の考え方で専門化し、液体原料はすべて大きな受け入れタンクを四階に設置してタンクローリーで業者に入れさせて配管するなど、アイディアの権化と化して、まさに破竹の勢いであった。

 生産量が二倍にあがり、生産性が四倍にあがっても、作業員の仕事は楽になって評判は良かった。新しい職長と組長が染料工場から転勤してきて配属された。作業員は暇になったので、ペンキ屋になってパイプやタンクの色分けを始めた。一ヶ月でPASの工場に遊郭のニックネームがついた。

 これで赤字はだいぶ滅ったが、暫くして、もっと大きな予期せぬ効果が出てきた。作業の含理化で、これまで三日間かかっていた工程が二日間になったこと、と、同時に進めていた主原料の工程改良によって、二工程の精製を一工程にしても製品の品質が良くなり、どんどん売り上げが伸びるのに製品着色クレームによる返品が無くなったのである。

| 発想の原点 | 18:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
発想の原点 3
 上にも下にも抵抗は全くなくなったが、そのかわり目が回るような忙しさになった。

 細かい経緯は省くが、工場長室に押し掛けて犬のように噛み付いてヒントを貰い、飛ぶ鳥を落とす副工場長の虎の威を借りて、へそ曲がりのように、誰もやらなかったことばかりをやっているうちに、三億売って一億赤字と言われた赤字工場が、二年後にトントンとなったのである。私はここで転勤になったので、あとの詳しいことは知らない。

 数年後に工場を訪ねて、担当係長から聞いたところでは、四年後には僅かながら黒字になった。国内だけで十三社あった競争相手は、四年後には一社になり、その後、世界での競争相手は、バイエル一社になって、競争相手というよりも、世界の供給を互いに助け含うような関係になったと言っていた。昭和五十年頃に、PASの時代は終わり、現場も天寿を全うするように消滅したと、その時の工場長から連絡があった。

 工場現場からの転勤先は、発足したばかりの標準化委員会事務局であった。三人の男子社員と二人の女子社員で、当時、日科技連が音頭をとって進めていた。社内標準化が住友化学でも始まったのである。この頃の思い出は、親分格の宗近道郎氏が「標準化の思い出」という本を出されて規格協会の文献賞を受賞したと、本人から三年ほど前に聞いた。

 私が、ここに転勤になった原因は、PASの現場に、アメリカの科学的管理法を導人したことが、人事部に注目されたことがあったように思う。
 現場に配属されて、最初に始めたことは作業員と一緒になって働いてみることだった。過去に大卒社員の誰もやらなかったことがわかったからである。誰もやらなかったことしかやらない、が当時の私の方針だった。前任者と比較されるのが厭だったのである。

 三交代勤務を一通りやって、いろいろなことが判った。
 最大のポイントは、作業員によって単位工程の所要時間が全く違うことであった。特に夜勤の濾過工程のバラツキが大きく、要領の悪い作業員が指示を守って五時間かかるところを、近道を見付けて一時間ですませ、後の四時間を熱睡している要領のいい作業員がいたのである。
 これがヒントになって、全作業員の操作法と時間を分析してみると、また、驚くべき事実が出てきた。皆、忙しそうに働いているのに、生産に直接関連する効率は三○パーセント位だったのである。
| 発想の原点 | 14:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
発想の原点 2
 発想が変わっているという噂のようなものが出て、そのまま研究所に居座る形になり、一度も論文を書いたことのない素人同然の私が、十数名の博士がいる農薬研究所の代表になってしまった。その後、関連会社の研究開発担当役員として出向して、九年間仕事をさせて貰ったが、これもまた楽しいものだった。もし、私が「はじめにロゴスありき」の言葉の意味を「言葉ありき」と解釈していたら、人生は全く違うものになっていたと思う。

 以下、再び、新入社員のころの思い出を振り返ってみる。私は、大学卒業の頃は駄目男だと本気で思っていた。それで、就職先としては、先輩が多い製薬会社を敬遠して、つぶしが利く化学工業会社を選んだ。
 その証拠になるかどうか解らないが、入社試験の願書の「入社後の希望職種」に工場現場技師と書いた。余程の変わり者と思われたのか、面接試験の時に土井正治社長から、工場を志願した理由について直々の質問を受けた。「雪国生まれの田舎者で、鈍くて研究員は自信がないが粘りに自信があると思うので工場を志願した」と、本気で答えた。

 何が気に入られたのか合格した。昭和二十七年のことである。朝鮮動乱終結後の大変な不景気で、住友化学でも大卒薬学系の採用数はたったの一名きりであった。
 入社後希望通り工場に配属された。工場長は兼任だったので、実質的には、後の、最高顧問の矢村秀雄氏が副工場長として管理されていた。
 二年ほど、副工場長直属になって、研究部へ派遣されたり、PBレポートの整理や中間物の分析実験をしているうちに、どこかの現場に配属されることになった。
 配属希望先を聞かれたが、返事は入社試験の時と同じで、「ゆきてのないところで結構です」「そんな返事をする奴がいるか」と言われて、工場で一番大きなグループで手の付けようのない赤字を出していた結核薬PASの製造現場にほうり込まれた。

 おまけに、副工場長直属にするから考えて黒字にして見ろ、係長は事務処理だけにするという命令が追いかけてきた。おまけに、一力月も経たないうちに、工場きっての腕利きの職長と二人の組長のなかの腕利きの一人も外してしまったのである。
| 発想の原点 | 22:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
発想の原点 1
 旧約聖書の「はじめにロゴスありき」のロゴスを「言葉」と訳したために、日本の学問はおかしな方向へ向かった。ロゴスの真の意味は、「言葉」とは、むしろ、反対の意味の「何が何だかわからない」「何でもいいから、やってみる」という意味である。この誤訳のために、日本人は学問の創造性を失っている。
 この主張が為されたのは、昭和三十年代だったと思うが、時期は忘れた。主張者は東大文学部教授で中近東言語学の最高権威であった。
 私は言語学的なことは判らないが、創造の場に長年身をおいた経験と観察を通じて、心からの共感をおぽえる。「何が何だか判らない、何でもいいからやってみる」の自然観こそ、創造の道へ人を導くものである。

 私は、友人の評によれぱ芸術家向きだそうで、理数課目は苦手である。地道に積み上げるような勉強をせずに、関門を通り抜ければよいというような学生時代を送った気持ちがあったので、強い劣等感を抱いて入社した。そして、自ら志願して赤字工場の現場で作業員として働くうちに作業の管理法に疑問を持った。その疑間を掘り下げているうちに、アメリカで発達していた科学的管理法の応用を思い付き、それまで手の付けようがないと考えられていた工場の赤字問題が解決した。異能力者のように見る人がいたが、「何でもいいからやってみよう」の気持ちで手を付けて、あとは事実に導かれただけなのである。

 この経験は、現場技術者として食っていけそうな自信を付けたが、それでも、学問に対する劣等感は全然消えなかった。
 入社十二年後に、やむをえぬ理由で研究員になった。応用研究所の開設が私の任務であって、研究員としての成果を期待しないからと引導を渡されての転勤であったが、私も、約二年間助手一名を貰って研究員生活を味わった。

 十二年の出遅れは大変なもので、逆立ちしても取り戻しようがないので、昔に帰って「何でもいいからやってみよう」の気持ちで、問題解決だけを目指して、自分の頭で解るレベルで仕事に手を付けたところ、それなりに成果もでて来て、一応、一人前の扱いを受けるようになった。短期間であったが、国内出願特許二十〜三十件、海外出願特許数件がとれた。全部、学生時代に読んだ本のうろおぽえをヒントにして、新しい問題の解決に応用出来ないか試してみたに過ぎない。
| 発想の原点 | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |